ベジタリアンが周りから距離を置かれるワケを考えてみた。。part5 〜 清らかさはどこにある?

の初めには、もてなしたり、もてなされたり、

そんな場面が多かったりするわけですけど、、

 

外食だったり、人と食事に行くときに、

「〜は食べないんです」って発言するときと

「〜のアレルギーなんです」って発言するときとで

相手や店員さんの反応、態度や雰囲気が違うって思ったことないですか?

 

大抵は「アレルギー」って言ったほうが、

みんなすんなり納得してくれるのはなんでやろ?って前から思ってました。

僕もベジタリアンの説明がめんどくさい日とかだってあるから

「僕、アレルギーなんですよお」って言ってみたり

「〜を食べると体調悪くなるんですよお」って嘘付くこともあるわけで。。

ベジタリアンのことって食事のときにしにくい話も多いから

それは同席する人への心遣いでもあるんですけどね。

 

その、アレルギーのほうが他人から理解を得やすいってことについて、

ちょっとこんなシチュエーションを想像してみてほしいんです。。

(ベジタリアン視点で)

今日は初めての友達が家にやって来る。

腕をふるって全部手作りのヴィーガンピザと、

それからトマトパスタと、

フライドポテト(これだけ冷凍モノ)を用意しました。

友達が喜んで食べることを期待しながら。。

いざその友達がやって来て、もし

「私、小麦アレルギーだからピザとパスタ無理なんですよお。。」

と言ったとしたらどう感じますか?

とても残念だなあとは思いながらも、

「ああごめんなあ、先に聞いといたら良かったよなあ。。」

ってな感じになるんじゃないでしょうか。

 

でも、もしその友達が

「私、小麦を食べない『主義』なんですよお。

でもフライドポテトはOKなんで大丈夫ですから〜。。」

と言ってピザとパスタにまったく手を付けなかったとしたら、、

もてなした側としてどう感じますか?

ちょっと1分考えてみてください。。

 

なんだかどこか心がすっきりしないような、

そんな感覚になるんじゃないかと。。。

 

僕も、僕の親しいヴィーガンの友人も

よく話してるんですけど、

例えばこの先の人生で、鶏の唐揚げが大得意なおばあさんがいて、

僕らが「お肉を食べない主義」だとは知らずに

僕らのためだけに(喜ぶことを期待して)

唐揚げを作ってもてなそうとしてくれてたら、

もしそんな場面に出くわしたら、

何も言わずに唐揚げを食べるって選択肢もあるかなと思ってます。

 

なにがあっても動物性の食品は口にしないんだと、

そういう考えだけで行動してしまうと、

どこかで人の気持ちを傷つけちゃうことにもなる。

あたたかい気持ちで始めたことが冷血さを生んじゃう。

 

にんげんの「清らかさ」っていうのは身体にあるんじゃなくて、

心にこそあると思うんです。

どれだけ身体の隅々まで「清らか」にしたとしても、

あなたが口から出した食品を食べようとする人はほぼいないし、

あなたの人生から便器が必要なくなるわけでもないです。

人間の「身体」はどんな食事をしようが「清らか」には成りきれないんです。

ほんとうに「清らか」にできるのは

その「心」だけじゃないでしょうか。

 

6 返信
  1. ビンカ says:

    「出されたら、食べるのが礼儀なのでは?」というふうに考える方も多いですがお料理してくださった方に対する礼儀と命を奪われた者に対する礼儀と両方あると思います。お料理してくださった方は、目の前におられて確かに、その面前でご好意をお断りする、そのことはたいへん申し訳ないと思いますが命を奪われた者は、いま物申すことができないだけです。ですから、私は、誰に賛成されても反対されてもただ自分として、礼儀を尽くすのみだと思っています。気を悪くされないように言葉を配慮すれば動物たちのご遺体を食べなくて済みますよね。

    返信
  2. ふみふみ says:

    関西弁の語り口に、面白く読ませていただいています。わたしもビンカさんと同じきもちです。小麦と肉では違うと思うです。肉を出してくれた人の好意を傷つけるよりも、何も抵抗することができずに殺されてしまった動物を食べることのほうがむごいと思うです。一生を1㎡あたり16羽の過密飼いを強いられるブロイラーは、強制的に早く成長させられるように改良されているため、自分の体重を自分で支えることが困難になっています。そして50日ほどで、詰められ食鳥処理工場へ連れて行かれます。この一生に鶏は異議をとなえることができません。工業的畜産がどのようなものか知っているわたしたちは、鶏にかわって異議を申し立てるべきじゃないでしょうか。もしよろこんで、何も言わずにから揚げを食べてしまったら、おばあさんは、ほかの方が来たときもから揚げをつくってしまうのではないでしょうか?ブロイラーがどのように飼養され、屠畜されているかを伝え「だから食べられない」と謝り、かわりにベジ料理をごちそうする、というのが最良の選択に思われます。相手に「食べるな」ということは、動物を守るためにマイナスになると思いますが、自分が「食べない」と意思表示することは、動物を守るためにはプラスになると思います。好意を傷つけられても、肉体的な苦痛を味わったり、恐怖をかんじたり、殺されたりすることはないです。そして傷つけた好意は修復させることも可能です。だから、これ以上何も言えずに、苦しめられ、殺されてしまう動物を減らすためにどうすればよいのか、を基準にして行動したいです。もしその肉を食べることで、工業的畜産が改善される、もしくはベジが広まると判断したら、食べます。レッツ、ベジベジ!

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  3. veggiezjp says:

    >ビンカさんコメントがいただけるほどに考えさせられる内容や気になるテーマを書けてるようで、嬉しく思っています。僕は、動機が鍵だと考えていますよ。もし相手が、「僕らがお肉を食べない」ということを知ってるのにお肉を出したのだったら当然食べないですね。だってその人は空気を読めてないから。それから例えばどこかの民族のところへ行ってイモムシをごちそうだと言って出されても、僕は無理ですね。育った文化が違うから。僕は誰に対しても無理なものを食べろなんて思いませんし、ビンカさんにとっては(感情的な面で)動物の「ご遺体」を食べることは無理なのでしょう。そしてこの世界のどこかには、野菜の「ご遺体」も無理(食べられない)な人もいるのでしょう。70億人の視点は様々で、それぞれが「誰に賛成されても反対されても」無理だという領域ってのは持ってるのだと思います。ただ、その無理な領域をお互いが否定し合っても、住みよい関係や環境は生まれないような気がしています。といいつつ、こういったコメントをいただいたわけで、僕は僕のブログの表現の中で、ビンカさんの「無理な領域」を少し引っ掻いてしまったのかもしれませんね。できるだけ誰の気分も害さないようにとはつとめていても、完璧に誰の心に対しても染み渡れる音楽がないのといっしょで、100%誰にとっても通用する「正解な方法」というのはないのでしょう。ただ「方法」ではなく「法則」というのなら(例外はあったとしても)より広く役立てられるような気がしていますし、そういうことを僕は常に考えるようにしています。人も動物も自然も、苦しんでいるものが多いのなら、より少なくなればと願います。そのためによりよいアイデアがあればシェアをして、それいいよねとなれば噛んでみて、やっぱりマズいわと思ったら吐き出して、そうやって歴史上には「よりよい今」があるのだと、そう感じます。みんなでいっしょに考えて、よりよい未来を作っていけるとよいですね☆

    返信
  4. nao says:

    私は編集長のこの記事、いつもながら素晴らしいと思いました。ベジ、ノンベジに関わらず、人としてどう生きるべきか、という大原則とでもいいましょうか。。ビンカさんやふみふみさんのおっしゃる事、その気持ち、とてもよくわかります。でも、ふみふみさんの>殺されてしまう動物を減らすためにどうすればよいのか、を基準にして行動したいです。 もしその肉を食べることで、工業的畜産が改善される、もしくはベジが広まると判断したら、食べます。ここ、ポイントだと思うんです。結論から言うと、「肉を食べる」という極端な行為はともかく、ベジタリアンが肉食を否定しない事は工場畜産を改善する近道だと私は思います。今の日本ではまだアニマルライツの思想は早すぎると思うんです。多くの人に話を聞いてもらいたいならアニマルウェルフェアから、ではないでしょうか?そして、工場畜産の現状を改善しようと肉を食べる多くの人が動き出してから、やっとアニマルライツの思想も伝えられるというものではないか、と、私や私のビーガンの友人は考えています。もちろん、世の中にはいろんなタイプの人間がいます。だから、動物達の現状を訴える方法はひとつではないと思っています。激しく現状を訴える人がいてもいい。だけど、そういう訴えを見てベジタリアン嫌いになる人も必ずいて、悲しいかな今の日本人の大半はこの部類ではないでしょうか?そんな人達に、いきなり自分達の生き方(肉食)を否定するのは逆効果です。ゆっくりと少しずつ知ってもらう、という方法があっても良いと思うのです。編集長のようなベジタリアンはきっと多くのベジタリアンでない人達から好かれると思います。そんな魅力的なベジタリアンは、自然とその生き方に興味を持ってもらえます。そしていつか、向こうからベジタリアンについて聞いてきてくれるんじゃないでしょうか?その時に初めて、工場畜産の話をする。そんなのもありかな…と思います。ちなみに(このおばあさんの唐揚げのシチュエーションはわざと極端に書かれてるのだと思いますが)もし私がこのシチュエーションに出くわしたら、おそらく食べたくても鶏の唐揚げは食べる事が出来ないとは思いますが(苦笑)ある人がおっしゃってました。「受け入れる≠賛成・同意見」肉食を受け入れるのは、肉食に賛成する事とは違うって事、私達ベジタリアンは受け入れるべきではないでしょうか?

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  5. ばらんす says:

    楽しく拝見しました。編集長の葛藤が、垣間見える気がします。私は、何でも食べますが、編集長のようなベジタリアンは、とても理解をします。食べることに戦いを見出すようにないからです。ベジの方の動物だけがかわいそうで、野菜に関しては、そのように思われないのは、残念に思います。野菜にも、物申さない命があります。今の野菜つくりも、ブロイラーの如く、種もすでに、牛耳られている世の中です。食べる食べないで、戦いを選ばない方向が、ベジ、ノンベジ、相互の理解を深めると思います。人間は、雑食系の生き物です。  もちろん私も、動物が、人間の都合だけで、工業製品のように、扱われることには、嫌悪感をいだいている一人です。 私に出来ることは、命が、調理されたら、敬意をもって残さず食べることを、務めて行います。   とりとめもありませんで、失礼いたしました。 

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  6. veggiezjp says:

    >ふみふみさんありがとうございます。たとえに「唐揚げ」というのをチョイスした話は、人の好意と動物の命を天秤にかけたつもりではなく、僕にとっては、以前体験したことの延長みたいなものなのですが、また機会のあるときにでもその話はさせていただこうと思っています。おっしゃっている畜産の内容はもちろん重々受け止めていますよ☆そして自分の中で作ったマニュアルに従うだけなのではなく、その場その場を基準にした判断というのはすばらしいと思います。>naoさん、ばらんすさんありがとうございます。宗教も人種も含めて、すべての人が、すべての人を「受け入れ」られたら、争いごとは遥かに減るのだろうなあと僕も思います。だからこそひとりひとりの行動は鍵を握っているし、過ちを犯すこともひっくるめて同じ人間なのだと。でも争いごとを望むタイプの人がいるということ自体も自由で、なんでも自分のものさしで見つめることは結局対立を生み出します。そう考えると、争いや平和っていうのが自分の内面に存在するんだというふうな視点に変わってきますね。ほんとに貴重なご意見ありがとうございました。

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