人は活動家で、同時に傍観者。愛には取っ手がない話。

には自分や自分の愛する子供たちもしくは友人に危険が

迫って初めて経験する感情があります。それは行動にもつながります。

原発のこと、その危険性について声を上げて指摘してきた人は

「震災以前」からいました。

こんなに大きな問題になる前からいたんです。

彼らからは「だから言ったのに」というような声が聞こえてきそうですけど、

今までその人たちの意見に耳や手を貸すこともなく生活を送ってきて

今回の震災後に声を上げる側に回った人の数のほうが多いはずだと思うんです。

でも、多くの人が過去に耳や手を貸さなかったそのことを

誰に責めることができるでしょうか?

 

人は活動家であり、同時に傍観者でもある。

自分が耳にした他人の問題事にすべてこぼすことなく手を貸したり

集中するような時間も、エネルギーも人にはないものです。

人は五体満足に生まれても腕は2本しかありません。(2本もあります)

何かを選択することは、同時に何かを切り捨てること。

人には自由意志があるから、何も掴まないことも一つの生き方としてあります。

自分が掴まないものの数のほうが多いです。

つまり何かを切り捨てながら歩んでるんです。

生きるってことはそういうことでもあります。

他人が自分の大切にしてるなにかを同じように大切にしないからって

恨むというのは、どれだけおかしいことなのかわかるはずです。

みんなが「あの人は知ってるのに何も行動しない」って目で人を見て行けば

当然、世界中一人残らずなにかしらの傍観者で、恨みの対象者になります。

 

あなたが大切にしているものを守ってくれるのが「あたりまえ」ですか?

そんな義務は誰にもないんです。

差し伸べられる手はすべて奇跡です。

簡単に「あたりまえ」って言葉は使わないでほしいと思うんです。

 

愛には取っ手が付いていないことをあなたは知ってますか?

自分の周りに必要だからといって引っ張って持ってこれるものじゃあない。

世界中の愛は連結していて、

自分から人のところにヨイショと押しやってやると、流れとして

どこからか自分の元に愛が巡ってくる。

奪うことはできないから与えるしかないものなんです。

 

3 返信
  1. かなこ says:

    [あの人は知ってるのに何も行動しない」って目で人を見て行けば 当然、世界中一人残らずなにかしらの傍観者で恨みの対象者になる。]何も行動をしない人を客観的に見た際に、そこで個人の主観的な感情「恨み」がどのようにして関連するのか、よく分かりません。このふたつがまったく別のところにある人も沢山いると思います。

    返信
  2. veggiezjp says:

    伝えたかったのは例えば、募金をした人がしてない人に向かって「おまえたちが募金しないから苦しむ人を早く救えないんだ」と思ったり、ヴィーガンが非ヴィーガンに対して「おまえたちが革製品を買うから動物が苦しむんだ」と思ったり、フェアトレードの支持者が普通のチョコレートを買った人に対して「おまえたちがフェアトレードチョコを選ばないから子供の奴隷化が消えないんだ」とか思ったりするようなことを、世の中の様々な種類の問題に取り組んでいる人みんながすれば世の中、罪人だらけになるということです。 それだとなんとなく伝わりますでしょうか? こんなブログに目を留めていただいてありがとうございます。

    返信
  3. かなこ says:

    なんとなく分かりました。ご説明ありがとうございます。社会規模の問題に関して個人を責めるのは少しおかしいとは思いますが、そういう風潮があっても仕方がないな、とも思いますね。ベジタリアンというライフスタイルに興味があるのでこのサイトもちょこちょこ拝見しています。ご活躍ありがとうございます。かな

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